これは、聞こえない掲示板です。遠慮なく見てください。無科ですから安心ください。どうかお願いします。そして紹介ください。携帯でもok!
> 手話の表現はほんとうに美しい。ほんとうの日本語も美しい。
> 万葉集の和歌、古典、谷崎潤一郎、三島由紀夫、作品でいちばんすきなのが暗夜行路、羅生門。
> それを手話であらわせないのかしら。
> 日本語のほんとうの美しさを、美しい日本手話の表現であらわせないでしょうか?
きょうこさんの感じ方、取り組みに、思わずうなり、出てきてしまいました。
私は、日本語を外国語として外国の方々に教える機会があり、海外に出ることも多いので、日本語や日本文化については常々関心を持ってまいりました。日本語そのものに愛着を持ち、その美しさや面白さを多くの人と共有したい思いもあります。手話にふれる機会を得てからも、そのテーマは変わることはありませんでした。手話世界と日本語世界の美しさや面白さをそのままに、いかに伝えるか、やりがいのある課題です。高橋潔先生は、「空間に描く芸術」と表現しましたよね。このことばがなんとも好きですが、手話と日本語の双方を磨き、高めながら、往来できる表現を目指す。きょうこさんの書き込みに共感するものがありました。是非チャレンジしたいですね。
今の会社でどういうわけか、わたしの拙い文章力を見込まれて?社内報の担当になってしまいました。
ついでに、その出来がよかったので、会社説明会のプレゼンテーションをパワーポイントで作成するようにとの指示。
聴覚障害者が広報関係の仕事なんかしていいのかしら?
という戸惑いと、挑戦して見ようという気持ちが半々です。
わたしの書記日本語はまちがっていないのかしら?
耳によるフィードバックがないので、余計不安になります。
書物、新聞、幼時に読みあさった文語体の美しい日本語の文章。
それがわたしの、日本語のすべてです。
手話の表現はほんとうに美しい。ほんとうの日本語も美しい。
万葉集の和歌、古典、谷崎潤一郎、三島由紀夫、作品でいちばんすきなのが暗夜行路、羅生門。
それを手話であらわせないのかしら。
日本語のほんとうの美しさを、美しい日本手話の表現であらわせないでしょうか?
しかし、その中で、ろうの母親は自分の子供が間違った手話を使ったときは、その都度厳しく教えていました。見る側としては楽しいですが、親となるときついですね。でも、もう少しすれば、本音で親子の会話ができると思えば、楽しいのでは無いでしょうか。
> では、退散します。
うちの子どもたちは手話が間違っていたら通じないので、必死です。
上の娘が間違った手話で手話ると「?」わたしがわからないので、
本人も通じないとあれ?ちゃうなあ、自分の手話彙の中から
思い当たる手話を2、3回、繰り出します。
わたしがわかると、ああ、これが正しい手話かーと頭の中に
インプットされるので最近は間違わなくなってきました。
この子が考えるときのえーっととか、あー「いま、考えている」
という合間のこどばも、全部手話になってきました。
まん中の子はちゃっかりしてて、姉が間違う過程をちゃんと見ているので
はじめから間違わないで、使うことができるようになりました。
朝起こすとき「なに」、早くおきなさいというと「わかった!わかった!」
寝ぼけながら全部手話ります。
4才ともなれば、長い文章のセンテンスを手話で表現できますね。
長男はもっぱら手話。手話から入って後からそれに見合う音声言語を耳で聞いて覚える感じ。
親を呼ぶとき殆ど肩を叩きにきます。お母さん、お父さんと発音できるのにも関わらず。
わざわざ寄ってきて肩を叩いて、手で親の顔を自分の方へ向けます。
「ちゃんと聞いて!」という彼なりのジェスチャーなのかしら?
三人三様の手話の入り方、覚え方があって面白いです。
けれど聴覚障害の親が、手話の間違いに手厳しいというのも理解できます。
死活問題ですもの。通じないということはすなわち、コミュニケーションの欠落ですもの。
> 現実のすぐ前にある問題にたいして、なんとかしようとする場合、
> 力で押しては、なかなかうまくいかないことの方が多いです。
> 押してだめなら、ひいてみろ。です。
> まず、質問し、相手の言うことを聞き、その意見を認める側に回ることです。
> その上で、自分の意見を言うと、結構聞いてもらえます。
> 人は人に認められることを求めている感情の動物なのですから、全面否定というやり方を
> した上で自分の意見を述べてしまうと、相手も感情的になり、なかなか受け止めることが
> できなくなります。
> 私が社会生活の中で身に付けた処世術みたいなもんですけど、私が社会の中で
> そういうシーンにあったときにやる方法です。
> 参考になればと思い書いた次第です。
レスありがとうございます。私個人としては、そういう柔軟さや知恵が欠けていることは確かです。
でも、今までも今も、交渉にあたる方々は常に学校側に敬意を払い、感謝を忘れず、ささやかな
要求を必死で繰り返してきたわけです。感情的な問題でも、教育論の対立でもなく、単なる利害の
対立に過ぎないと私は考えています。聾教育の改善(手話の導入)=労働条件の悪化、ですから。
やっぱりね、「一部の頭のおかしい親がわめいてるだけ」という職員室の共通認識に説得力を
持たせないためにも、私みたいのはおとなしくしてた方がいいんですね。
何十年単位で活動している桃象さんたちを困らせない為にもね。頭脳も行動力も組織力も持ち合
わせた過激派(?)を、「温かく見守って」もらうためにもね。力になりたかったけど、お荷物
になっちゃ仕方ない。自分のこどもの事で精一杯だし。もうふっきれたつもり、です。
実際いいとこ取りとただ乗りばかりで申し訳なく思いますが、こどもがのびのび楽しく生活でき
る事を最優先して、利用できるものは全て利用しよう、という考えです。
後からくるお母さん達が、「キューの子」と比較して、どういう判断を下すか、やはりひとつの
ポイントだと思います。「キューの子」にさせないために、のらりくらりと笑顔でかわしていく
つもりです。
> 今、私達やこども達がが聾学校で困っている事を、当事者以外の人に説明する時のもどかしさ、
> 危うさ、限界を感じているところです。限られた時間の中で、本音と結論だけ言えば誤解しか生
> まない。かといって半端な説明も意味がない。相手に、耳を傾けようという気持ちがない場合は
> もう絶望的。
現実のすぐ前にある問題にたいして、なんとかしようとする場合、
力で押しては、なかなかうまくいかないことの方が多いです。
押してだめなら、ひいてみろ。です。
まず、質問し、相手の言うことを聞き、その意見を認める側に回ることです。
その上で、自分の意見を言うと、結構聞いてもらえます。
人は人に認められることを求めている感情の動物なのですから、全面否定というやり方を
した上で自分の意見を述べてしまうと、相手も感情的になり、なかなか受け止めることが
できなくなります。
私が社会生活の中で身に付けた処世術みたいなもんですけど、私が社会の中で
そういうシーンにあったときにやる方法です。
参考になればと思い書いた次第です。
それと、今回のささくれきのこさんの意見と、私の意見では違いますけれど、
でも、ささくれきのこさんの意見を読んだとき、
「そういう見方、感じ方もあったのか」と初めて知りました。
人は自分の思うとおりには反応してくれませんけど、それでも表面で現れてる
影響だけではないはずです。
ですので、自分が意見を言うのは無駄だとは思わないで下さいね。
「聞こえない子の心は聞こえない人が育てる」「親は子の生活の面倒をみるだけでよい」
というのは極端だとしか思えません。
聞こえない子の心は、聞こえる人でも育てられる。
それを不可能としている前提がおかしな点です。
ろう家族の方は、ろう家族の中で育ったという発想の枠があります。
ここに桃象さんのおっしゃる「聞こえない子と聞こえる親の関係をろう家族の立場
から考えてみることも,決して意味のないことではないとも思っています」といった、
言葉があるのだと思います。
聞こえない子の心を育てるのに、聞こえない人に手伝ってもらうことも
聞こえない子自身のためには必要なことだと思います。
というならば、同意しますけど。
聞こえない子の心は聞こえない人が育てる
うーん。
自分の子供は自分が育てる!デスネ!
その上で自分ひとり聞こえなくて寂しい思いをしないよう親がどうして上げるか考えて上げればいいと思うんだけどな・・・
だって世界中でいちばん V(^0^)信用できるのは子供にとって自分の親であるべきでしょ。そして何よりも子供を一番に優先し愛してくれるのも親だモノね!!
そのために親がどういう道を選ぶかは親によって違うと思いますが・・・
それを踏まえたうえで聞こえない世界へ子供を飛び込ませてはどうでしょうか?という発言に私は取れました。
相変わらず生意気ですみません。((^^)) ユルシテチョンマゲ。
> とまれ,「聞こえない子の心は聞こえない人が育てる」と,のっけから聞こえる親に言うのは,「聞こえない子と聞こえる親の会話は必要ない」という意味合いが多分に含まれているようにも思われます。
そういう意味での発言かどうかは私にはわかりようもありませんが、(無責任な横レスでほんと
ごめんなさい。)そうとられても仕方ないですよね。たとえそうでなかったとしても。
今、私達やこども達がが聾学校で困っている事を、当事者以外の人に説明する時のもどかしさ、
危うさ、限界を感じているところです。限られた時間の中で、本音と結論だけ言えば誤解しか生
まない。かといって半端な説明も意味がない。相手に、耳を傾けようという気持ちがない場合は
もう絶望的。
この掲示板は、過去ログを大切に扱っているし、検索機能も便利。話の土台がしっかりしている、
というのは、幸せなことですよね。リアルで、行きつ戻りつかみ合わない話し合いが続いてるもので。
愚痴ってしまいました。ごめんなさい。
きちんとした説明をする能力がないのだから、黙っていた方がましなのですが。
知識や訓練の問題ではなく、人間性に欠陥があるらしいです。私の場合。
まとまる話もまとまらなくなるので・・・。もう黙ってるしかありませんね。はあ。
夏休に入って忙しく、レスが出来ませんでした。
開けてみたら、色々ありがとうございました。
しかしながら、まとまった事を書こうと思えばどこから手をつけて
いいのかどうも絞れず、そうこう言っている間におっとまた
用事が・・・てな感じで、もう少し時間が出来ましたら
難しい質問してしまった自分に対して整理して
子供の様子など書けるかと思います。
具体的にどんなところから申し上げたらいいのか、
まとまらないかもしれませんが・・・・。
母ちゃんは忙しく、すみません。
再び閉じます。
> また、二次的言葉を発達させて話し言葉を強化していくのは、つまり、会話などでキャッチボール的にやり取りするのみでなく、人前で自分の考えている事を他者に対してもわかるように工夫しながら自分の持つ言語能力を上手く処理しながらまとめられるような能力・・という事でしょうか?
二次的ことばの発達に伴い,「内言」という精神活動の萌芽もみられてきますね。
子どもが自分の考えや経験を他者に語ることばに,「内言」の存在を示唆する行動が
見られるようになる。その行動のひとつに「談話停滞」というのがあります。
談話停滞とは何かというと…,
日本語だと,言いよどみ(「えーと」「あのー」),言い直し,語や句の繰り返し,
音声が伴っていない間(休止)などがそれですす。特に聞こえる幼児の場合は,
自分の経験や考えを語る時,文を産出する前に「えーと」「それでね」「とねとね」
といったつなぎ音声を発しながら,これから何を言おうか,どのような設計で話そうか
ということを考えている傾向があります。
二次的ことばとは,考えながら話す,あるいは話しながら考えるといった精神活動が
活発に行われていることばですから,まだ幼い子どもはそれがまだ発達途中なので,
何かを言う前に「えーと」「あのねあのね」「んとねとね」と言いながら一生懸命
考えて話すわけです。
それが手話を用いる子どもの場合にも同じような特徴が見出されています。
例えば,両手あるいは片手の手や指を意味なく手話空間内で小刻みに動かしたり
揺らしている(同時に聞き手から視線をはずしていることも多いです)のがそれです。
その行動は,発話の頭や発話途中と比べて発話産出前で発生する傾向があります。
ということは,手話を用いる子どもも,語る前に上記のような行動を示しながら,
さぁ何を話そうかな,どういう流れがいいかななど考えて話している,いわば手話を
通して二次的ことばを身につけようとしているという様子が伺えるわけです。
特に興味深いのは,聾学校幼稚部で子どもが経験を報告する場面をみていくと,親が
ろう者か聴者かに関わらず上記のような行動を示す傾向があるということです。
親や教師から教えられてもいないのに,自然にそういう行動を身につけている。
ところで,ろう者成人の間では,こういった行動は手話会話のルールとしても使って
います。つまり,“今、私は考え中なのだから待ってくれ”というメッセージが
含まれていて,それをみた聞き手のろう者は“ああ今考えているのだな,少し待とう”
と受信して待ちます(時として待たず割り込む場合もありますが)。
これが先の子ども達にも自然にそのルールが共有されているようであれば,明らかに
ろう児集団のなかにもろう文化の共有がなされていることも言えるでしょうね。
>かみ合わない的外れな横レスかもしれませんが。またそれとは別に、私の方こそ今、
>我が子が他者であることを突きつけられているんですよ。
そのような見方もあると言うことで。
とまれ,「聞こえない子の心は聞こえない人が育てる」と,のっけから聞こえる親に言うのは,「聞こえない子と聞こえる親の会話は必要ない」という意味合いが多分に含まれているようにも思われます。
==
> 健聴の子どもでも喋りはじめは可愛いというでしょう。
> つたない手話で喋る子どもも、それはそれは可愛いですよ。
> 娘さんが手話で喋りはじめるのをどうぞ、楽しみにして下さい。
横レスですいませんです。
先日、都合でろう学校の幼稚部の課外授業に参加できました。学校の公開授業とはまったく違うので、幼稚部の児童は普段のままでした。その中で、児童同士の会話を見ていると、母親とは口話が中心ですが、やはり、児童同士では口話と手話の同時法でした。学校の中をこっそりと見学したときに興味を覚えたのは、助詞の使い方の指導方法です。ポスターなどの助詞の文字に○をして、注意をしているのです。助詞によって文の意味が変わるので、その助詞の大切さを教えているのですね。
その中で、担当の先生の多くは手話が出来ます。普通の会話も可能でした。
でも、3歳〜5歳の児童の手話を見てると、小さな子が話しているのと同じで、目じりがたれてきました。しかし、その中で、ろうの母親は自分の子供が間違った手話を使ったときは、その都度厳しく教えていました。見る側としては楽しいですが、親となるときついですね。でも、もう少しすれば、本音で親子の会話ができると思えば、楽しいのでは無いでしょうか。
では、退散します。
> 聞こえない子と聞こえる親の関係をろう家族の立場から考えてみることも,決して意味のないことではないとも思っています。少なくとも「聞こえる親は聞こえない子の生活の面倒を見るだけでいいのでは。聞こえない子の心は聞こえない人が育てる。」という話を,聞こえない子を持つ聞こえる親たちの前でした,あるろう者のような真似だけは絶対すまいとも考えています。
文脈によるけど、アリ、ではないかと。聴者だって、「親に心を育てられた」人は、そんなに多くないと思います。あるがままの親から受ける影響は絶大だけど、そこから先は自分で世界を広げていくわけです。聞こえない子の親の場合、「私がやらなければ」→誰にもできない、子供は何もできないまま、というプレッシャーが強くて。そこのところを一度解き放って、聞こえない人の社会に触れることはとても大切だと思います。実際、聾者の社会を全く知らずに教育だけに没頭する親(先生も含めて)が、あまりに多い。そういう状況での発言としては、聞こえる親にとっても納得できるんですが。1世代前の、自他共に認める「口話教育に成功した母」に先日会ったんですが、彼女は聞こえない事を憎んでいるし、聞こえない子のために払った犠牲を、後悔はしていないけどやっぱり憎んでいるとしか思えません。そして、「聾者の意見、考え方」を、心底軽蔑しています。私にとっては、恐ろしい反面教師でした。私にもそういう面があるから。そして「成功例」の子のほうは、「スタートは遅かったけど、立派な聾者」です。尊敬してるし、希望でもあります。よその家のことはわかりませんが、少なくとももし自分が聞こえない子の立場だったら、...。親に無闇にいじられるのはいやです。かみ合わない的外れな横レスかもしれませんが。またそれとは別に、私の方こそ今、我が子が他者であることを突きつけられているんですよ。
A Mammyさん,はじめまして。
ここは本当に久しぶりの登場ということもあって,ついいつもの論文っぽい書き方で
書いてしまいました。誠に申し訳ありません。
> 後者の方は、つまり、手話によって子供が思考できたり、
> また自身の考えていることを自己確認または認知できるような根底となる基礎言語力が備わっているかはリテラシーの差に直結しない。
「基礎言語力」もリテラシーの習得と大きく関係します。
先のKelly論文では,いわゆる読み書き能力低群と読み書き高群との間で大きな差はなかった
ということなので,両群とも基礎言語力はある程度備わっているわけです。
>むしろ、それを形として表していくための基礎日本語処理能力があやふやなままだと、
>リテラシーの獲得にも差が出てくる・・だから、その基盤となる日本語教育をしっかり
>積み上げていく必要がある。・・というような意味でしょうか?
そのとおりです。
ある音声言語の読み書きにおいて,語彙認知と文処理は音声言語の体系に基づいた処理が
要求されますから,基礎言語力を基盤としながら日本語教育をしっかりと積み上げることが
重要になるということです。
最近いのししの娘さんが紹介して下さった月刊言語8月号の武居渡さんの論文にも,似たような
内容が詳しく書かれていますよ。
> また、二次的言葉を発達させて話し言葉を強化していくのは、つまり、会話などでキャッチボール的にやり取りするのみでなく、人前で自分の考えている事を他者に対してもわかるように工夫しながら自分の持つ言語能力を上手く処理しながらまとめられるような能力・・という事でしょうか?
はい,おっしゃるとおりです。
> どうも最近歳のせいか、言語処理能力が落ちてきたと感じる私です。
> 我が子の成長とともにとても共感できるところがあり、お聞きしたく思いました。
その,共感できるところとは具体的にどういうことか教えてくださいますか?m(_ _)m
差し支えない範囲でお願いします。
> 聞こえない子と聞こえる親の関係をろう家族の立場から考えてみることも,決して意味のないことではないとも思っています。
そうですね。
聞こえない子どもが,聞こえる/聞こえないの違いを通してどのように聞こえる人・
コミュニティとともに生きていくかについて日常経験の中で学ぶには,聞こえる親は
重要なロールモデルであるとも言えましょう。聞こえる親の中には自身の手話力の不足を
痛感し,会話がなかなか深くできないことに涙を流す方もいます。そういう方に対して,
桃像さんのおっしゃったようなあるろう者のことばは,子どもの全人的発達を支えるための
基盤となる母子関係の形成を支援する側として言うべきことではないと思います。
聞こえる親に,手話の指導だけでなく,聞こえない子どもの生涯発達上のニーズを肯定的に
踏まえ,積極的に示すようなロールモデルとしてどのように接していくか支援していく必要も
あるでしょうね。
研究の世界でも自戒すべきことがあります。聞こえない子どものコミュニケーションや言語の
発達を研究した論文の多くは,聞こえない子どもと聞こえる親群と,聞こえない親子群との
差異を示すような分析方法が多くとられています。結果は,前者の群のほうが,母子関係が
不十分である,自然な会話がなされにくいなどの傾向があると指摘されているが,問題なのは
じゃあどうしたら母子関係の形成や自然な会話がなされるようにできるのか,ということまで
展開している研究は少ない。とりわけ,ロールモデルのように精神的な発達の面も視野に
入れたものも少ない。
そこには潜在的に,聞こえる親と聞こえない子どもの関係はろう親子と比べて何かしら
「不十分な」ところがあり,だからろう親子から参考にできることを学ぼうといった視座が
多分にあります。
それはそれで大切なことは学べるのですが,それだけでは聞こえる親と聞こえない子どもとの
関係において固有(少し語弊ありますが…)の発達的意義をみることはできないですね。
それを見出すことができたなら,聞こえる親への支援もより踏み込んだものになれると思います。
前述のあるろう者も含めて一方的とも思われる考えをお持ちの方々も,もっと他者の他者性を
意識して行動できるように「当事者主義」を越えて語る力を持ってほしいと思います。
> 聞こえない子と聞こえる親の関係をろう家族の立場から考えてみることも,決して意味のないことではないとも思っています。
そのとおりだと思います。
「聞こえる親に育てられた」ということと「聞こえない親に育てられた」ということでは
違いがありますが、後者が優れているという発想が根底に感じられるとき、目をそむけた
くなります。
聞こえないなら、聞こえないなりの、育て方というのがあり、
聞こえるなら、聞こえるなりの、育て方というのがあっていいと思います。
これは、私のような聴覚障害者が聴者の子を育てる時にもいえることだと思います。
周囲の親のように音声にきちんと適切な反応をしてやれないというもどかしさを抱える
ことになるでしょう。自分の限界と向き合わなくてはならない。覚悟してます。それで
も子供が欲しいと思います。
そのろう者は、自分の子が聴者だったならば、心は聴者に育ててもらい、自分は子の生活の
面倒を見るだけでよいと考えられるのか・・・。
聴者がそのように聴覚障害を持つ親の立場にいる人に立場をそのまま置き換えた発言をした
ら、どれほどの悲しみや怒りを自分が感じるか、立場を変えて少しは考えて欲しい。
抑圧だ!差別だ!と、自分がされたときは叫ぶのでしょうか・・・。
そういう指摘を受けたとき、こういった傾向も「聞こえないゆえだ」という理由づけを行う
人もいるのですが、そんなの嘘だとしか私には思えません。
まともな文章が書けなくても、そういう内面的な幅をもつろう者は大勢いるのだから。
巧みに生きることも結構だが、人にもまれて、人の気持ちに板ばさみになって
生きることの方が「心の育成」においては大事なんだと考えてます。
自分の欲求に始まり、自分の欲求に終わってしまう子の心は育ちません。
聞こえない子が、さまざまな経験を経て、他者の存在を自身の存在と同様に重きをおき介在させよ
うとしているかどうかが、「心を育てる」ときの鍵だと私も思います。
これをもっと平たくいえば、「相手のことを考えようとする」作業のことです。
そういう作業の大切さは、幼い頃に親が教えるものなのではないでしょうか。
同じ立場の人のことしか考えられないというのは、
さまざまな状況にいる人たちと人間関係を築く上でも大きな欠点となると思います。
ろう児を両手の年数近く手話(ここでは手話の定義は置いておいて)を中心に育ててきている聞こえる母ちゃんです。初めまして。
ぶんごさんの仰る*オノマトべ・・とか、米国のKelly論文などに見られる兆候など、我が子のリテラシー能力や行間を読み取るなどの発達に大変共通するところがあり、もっと私のような
一般人にも分りやすく具体的に書いてもらえたらなあと思って、つい出てきました。
オノマトべ・・に関しては、聴覚活用でなく目からかなりの擬音語擬態語を獲得しているので
大体仰ることは察しがつくのですが、後者の方は、つまり、手話によって子供が思考できたり、
また自身の考えていることを自己確認または認知できるような根底となる基礎言語力が備わっているかはリテラシーの差に直結しない。むしろ、それを形として表していくための基礎日本語処理能力があやふやなままだと、リテラシーの獲得にも差が出てくる・・だから、その基盤となる
日本語教育をしっかり積み上げていく必要がある。
・・というような意味でしょうか?
また、二次的言葉を発達させて話し言葉を強化していくのは、つまり、会話などでキャッチボール的にやり取りするのみでなく、人前で自分の考えている事を他者に対してもわかるように工夫しながら自分の持つ言語能力を上手く処理しながらまとめられるような能力・・という事でしょうか?
どうも最近歳のせいか、言語処理能力が落ちてきたと感じる私です。
我が子の成長とともにとても共感できるところがあり、お聞きしたく思いました。
聞こえない子と聞こえる親の関係をろう家族の立場から考えてみることも,決して意味のないことではないとも思っています。少なくとも「聞こえる親は聞こえない子の生活の面倒を見るだけでいいのでは。聞こえない子の心は聞こえない人が育てる。」という話を,聞こえない子を持つ聞こえる親たちの前でした,あるろう者のような真似だけは絶対すまいとも考えています。
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桃像さん,こういう場でのレス本当に久しぶりですね。
> ろう者の自我というものは手話を通してのみ形成され得るものなのか? むしろ外部との接触,言い換えれば聴者との接触を通すことにより,聾者としての自我の形成が促進される場合もあるのではなかろうか? 自我とは大凡自己と他者の違いの認識を基盤として形成され得るものでもある。そうだとすれば,聞こえない子を持つ聞こえる親の存在にもまた深い意義がある。
他者の他者性ですか。確かに自我形成の面から見れば,手話は両者間の接触のツールのひとつ
に過ぎないですね。もっとも手話の方が自分と相手との軋轢やズレの深さを自覚しやすいと
思いますが。そして,相手をいつも一緒にいるような他者ではなく“他者の他者性”として
意識するような事態に直面することは,これまで形成されてきた自我を揺さぶられ,改めて
再構築することにつながると。
聞こえる親の方々には,日本手話力に限界があったとしても,親自身が子どもの目前で
ふるまう日常生活様式,手話を通してみる聴者コミュニティの文化や知識にふれさせることは
大変意義があることですね。
一方で,手話を使わない家庭では,聞こえない子にとって自分だけが異質であるという無言の
抑圧を受け続けているために,ある程度バランスのとれた自我形成が困難になるんですよね。
適切に形成がなされるような精神的な場が必要になるということで。
そう言えば,聾学校教師の子どもへの叱り方もろう者と聴者とでは異なっていますよね。
聞こえない子も幼児期ですでにその違いをわかっていて,それなりの対応をとっている(笑)。
これも他者の他者性を通した自我形成の一側面と言えるのかもしれませんね。
ろう者の自我というものは手話を通してのみ形成され得るものなのか? むしろ外部との接触,言い換えれば聴者との接触を通すことにより,聾者としての自我の形成が促進される場合もあるのではなかろうか? 自我とは大凡自己と他者の違いの認識を基盤として形成され得るものでもある。そうだとすれば,聞こえない子を持つ聞こえる親の存在にもまた深い意義がある。
ぶんごさんへ:
19世紀ドイツ帝国におけるユダヤ人社会の動向は,ろう者社会の動向を慮る上で限りない示唆を与えてくれるようにも思います。19世紀後半から20世紀にかけてのドイツ人社会がユダヤ系社会の同化,受容とホロコーストの両極端を揺れ動いたのはなぜなのか。またジンメルとウィトゲンシュタインには大きな感銘を受けました。母語というものは,他言語の海の中に浮かぶ島に立つ個人の中でより輝きを増すものなのかもしれません。
==
==
最近は電子メイルを利用する聾者も随分増えてきました。
今日,私のところに届いた電子メイルの中に,次のような文が書かれたメイルがありました。「○○様 ■■です。昨日もお疲れ様でした。私は言って忘れたので,言いたいけど、迷惑かもしれないか。」
個人的なメイルに書かれた他人の文をインターネットで公開することは本来ならば許されることではないでしょう。しかし,聞こえない小さな子を持つ聞こえる親たちに,「現在のろう者たちは書記日本語が苦手な人が少なくない」と言ってもピンと来ない人の方が多いのではないかとも思っています。だからこそ敢えて現実を知ってほしいとも思い,こういう書き込みをした次第です。私は毎日こういう文が書かれたメイルに目を通し,相手にわかるような文を書くのに悪戦苦闘しているのです。ぶんごさんが書くような文なんぞ論外(笑)。少なくともある一定基準以上の書記日本語の文が書けるようなろう者がもっと増えてほしいというのが,現在の私の偽らざる実感でもあるのです。
いわゆる「ろう文」を紹介するのはこれが最初で最後です。
==
久しぶりの登場です。
ご無沙汰していました。
> ろう児・聴覚障害児が書記日本語を用いるときにオノマトペを十分に使いこなすことができないという統計的事実ははたしてあるのか,かつてのいのししの娘さんのような勘違いをしているろう児・聴覚障害児は本当に多いのか,もしそうだとすればそれはなぜなのかということも考えてみる価値はありそうです。
オノマトペは,メタファーと同様に視覚,聴覚等の感覚モダリティと深く関連した認知的な機能を
持つものとして検討されてきています。とすれば,聴覚モダリティを通して伝わる環境音や音声の
リズム,イントネーション,高低などが音声言語のオノマトペの理解を促進させている可能性は
あるかも。最近では,身体運動の一定のリズムやパタンの形成が,オノマトペの習得と相互に
関連しているらしいという示唆も出ているようですね。従来の口話教育は,音声からの入力による
日本語指導が多かったが,オノマトペやメタファーの場合は,音声だけでなく身体感覚を活用して
からだ全体で感じ取り,みにつけていくと言った手法があってもいいでしょうね。
手話を導入している聾学校幼稚部に行くと,教師は,手話や身振り的な表現に音声言語の
オノマトペを示す口形を伴わせて表現し,それを子ども達と一緒に楽しんでからだを
動かしている場面をときどき見ます。
> また,最近強く思うことなのですが,ろう児・聴覚障害児(バイリンガル教育を受けることができなかった子供達が中心になるものと見て下さい)は書記日本語が苦手と言われていますが,特に「行間を読む」力が著しく欠けているとも思います。「行間を読む力」こそは「豊かな一次的ことばの存在」なしには語ることはできないとも思うのです。
米国でいわゆる読み書き能力が低い群の聴覚障害者と,比較的高い群とを比較した研究報告が
あります(Kelly論文)。両群を比較してみると,語彙認知や文処理などボトムアップ処理は
後者の方がレベルが高いが,既有知識との関連,書き手の意図,自身の理解チェックなどの
トップダウン処理はほぼ同じくらいのレベルであるとのこと。ボトムアップ処理につまずきが
あると,通常は動けるはずのトップダウン処理も引っ張れて機能しにくなってしまうと
考えられている。そういった意味では,一次的ことばとしての話しことばを通して様々な
心的経験を蓄積するだけでなく,語彙認知や文処理に結びつけるための日本語教育もまた
きちんと考えるべきであるということでしょうね。また,その中間で,二次的ことばとしての
話しことばを獲得しながら,頭の中で考えるといった精神活動を活性化させていくことも
発達上大切かもしれませんね。
というものの,確かに一次的ことばとしての話しことばを,子ども達はどのように身に
つけていっているのかを明らかにし,その中でどのように発達的な意義があるかを
検討した研究はまだですね。あったとしても,それは経験的報告の域を越えていないですし。
それでは。
いのししの娘さんが書かれたエピソードは,聴児の場合でもそれほど珍しいものではありません(新聞や雑誌のコラムなどにこういう類の話は結構載っています)。
ろう児・聴覚障害児が書記日本語を用いるときにオノマトペを十分に使いこなすことができないという統計的事実ははたしてあるのか,かつてのいのししの娘さんのような勘違いをしているろう児・聴覚障害児は本当に多いのか,もしそうだとすればそれはなぜなのかということも考えてみる価値はありそうです。
また,最近強く思うことなのですが,ろう児・聴覚障害児(バイリンガル教育を受けることができなかった子供達が中心になるものと見て下さい)は書記日本語が苦手と言われていますが,特に「行間を読む」力が著しく欠けているとも思います。「行間を読む力」こそは「豊かな一次的ことばの存在」なしには語ることはできないとも思うのです。
デフ・バイリンガル教育を普及させていくためには,一次的ことばの豊かさの大切さをアピールするための様々な事例をもっと具体的に示す必要があるのかもしれません。
==
はじめまして。
もうお返事するのには時間が経ってしまっているかと思うのですが、気になってやっぱりカキコしてしまいました。
あるあるさんが通っている乳幼児教育相談に私も以前通っていました。
私の場合、難聴がわかってすぐそちらを紹介されたので
何の疑問も抱かず聴覚口話法が一番!手話なんて!という感覚を持ってしまいました。
事情があって幼稚部には上がれず他の通園施設に通いましたが
そこでは手話を薦められ今までと180度違う指導に
とても悩み先生やその施設に対して拒否をしてしまっていた時期もありました。
でも今考えるととても狭い世界に自分はいたなと思っています。
手話もとても大切な言語手段であると今では思っています。
確かにそちらの聾学校は実績のある学校だと思います。
その指導方法を私は否定も肯定もしませんが、手話はいけない!と決め付けるのはやっぱりいかがなものかと思います。
私は現在手話を使って子供とコミュニケーションをとっています。
手話だけでなく音声もつけますが、どなたかが書き込んでいたように
私も音声や発音指導はオプション的なものだと考えています。
まったくやらないというのは私自身が決めてしまいたくないので・・・
(将来子ども自身が判断が出来るようになるまで選択肢は残しておきたいなーというのが私の気持ちです)
私はそこの聾学校に固執する必要は無いと思いますよ。
もっとあるあるさんとお子さんが気兼ねなく楽しく通える学校はありますから。
私は子供が2歳の段階でそう思っていらっしゃるあるあるさんが
すごい!と本当に思います(自分は気が付かなかったので、恥ずかしながら・・・)
頑張ってくださいね。
> 私も聞こえる娘をもつろう者です。
> わ〜、いいですね〜。
> 私も娘がいつか手話で話しかけるのを楽しみにしながら、
> 手話で話しかけています。
> きょうこさんもゆたかくんが生まれてからすぐに手話で
> 話しかけたのかな?
手話で育ててきました。で、他の人からゆたかに物を頂いたりして
わたしが「ありがとうは?」というと、ありがとうと手話ります。
話し言葉より、先に手話が出てきます。
手話から入って後から言葉を覚えるという感じ。手話の方が雄弁ですよ。
健聴の子どもでも喋りはじめは可愛いというでしょう。
つたない手話で喋る子どもも、それはそれは可愛いですよ。
娘さんが手話で喋りはじめるのをどうぞ、楽しみにして下さい。
> 聞こえる子どもをもつ聞こえない親ってたくさんいるのに、
> そういう親のための掲示板、ないんですね。
> 私はホームページ作成の知識がないんで。誰か作ってくれない
今HP作成の方法を勉強中です。
作ろうかなあと思っています。
> かなあ?
>
> この掲示板とはちょっとかけ離れた内容ですみません。
>
> 聴者との付き合いや、聞こえることについての誤解などは、お姉ちゃんが
> 教えてくれるでしょう。雨自体に音はないとか、テレビの近くにいるからと言って
> 全部聞いているわけではないとか、木の葉が散る時ヒラヒラなんて音は出ないとか。
> こういう誤解からケンカになることもしばしば。すねると目をつむって絶対説明
> 聞こうとしないんだもの。こじ開けても見えないし・・・
「桃太郎」の「桃」の「ドンブラコ」。
あれは、実際にそのような音がするのでなくて、
流れてくる様子を音にしたものだということを知ったときは
思わずのけぞってしまいました。
本当に「ドンブラコ」と音がすると長い間信じていたんです。
ろう者にも聴者の世界で当たり前になっていることを知っておく必要があると
思うんです。
でも、聴者にも「ろう者の世界で当たり前になっていること」をもっと知って欲しいですね。アメリカにはそういった本が出ているんですって。
本のタイトルは、確か「For hearing people ONLY」。
第3版が近々出るそうです。
日本でもこのような本が出るといいな〜と思います。
誰かやってくれないかな〜?
ありがとうと言うか、ごめんなさいと言うか・・
私は、今思えばこうだったんだなという事を書いたのですが、
特に葛藤があったわけではなく、なかったからこそ今になって
色々考えてしまうのです。妹にあのころは、何もわからないで
・・・なんて言ったら、気持ち悪いとか言われそうです。それに
子どもの時から同情的に接していたら、ギクシャクした関係に
なっていたかもしれません。
娘さんは我慢しているなんて思ってないでしょう。その場その場
の我慢はあっても・・・ 大人より状況を受け入れる能力を持っ
ていると思います。あれこれ考えないし。私は母に愛されていると
感じていたし、頼りにされていると思っていました。その点は
母もうまくやってくれていたと思います。
「お姉さんにはわからない」は中高生のころ、よく言ってました。
私も同じくらいだったので、「聴者だって悩みはある」とか、
「それは、聞こえないのと関係ないじゃない」と言ってましたが、
今なら聞こえないからこそ、聞こえないことと結びつけて考えると、
思うことができます。
小学生のころは、聞こえない以外は皆と同じと考えていたのが、
だんだんいろんな事がわかってきます。中学部になれば、現実的に
将来のことを考えるようになり、職業選択の制限などを知り
個人の努力ではどうしようもない法や制度の壁の存在も知ります。
妹のころは、まだ準禁治産者扱いでした。ちょうど問題になった
ころなので色々思うことはあったでしょう。
同じように思春期を迎えますが、私よりずっと深い意味を持って
いたようです。いつもニコニコ、のんびり、ゆったりしていた妹が
このころから、強くたくましくなっていったような気がします。
妹の場合は聾学校だったので分かり合える友達がたくさんいたこと
は、心強かったと思います。カメくん?も大きくなるにつれていろいろ
考えることもあると思いますが、ここの皆さんがおっしゃるように、
どんな形であれ仲間のいるところへ入れてあげてください。
聴者との付き合いや、聞こえることについての誤解などは、お姉ちゃんが
教えてくれるでしょう。雨自体に音はないとか、テレビの近くにいるからと言って
全部聞いているわけではないとか、木の葉が散る時ヒラヒラなんて音は出ないとか。
こういう誤解からケンカになることもしばしば。すねると目をつむって絶対説明
聞こうとしないんだもの。こじ開けても見えないし・・・
とにかく、気にかけていただいてありがとうございます。
今は、たまに会うとワイドショーの話題で盛り上がる立派なおばさんに
なりました。私たちは口話で話します。私が手話下手だし、慣れている
のでその方が楽です。但し、子どもの頃から2人とも声なし、助詞なしです。
母は嫌がりましたけど・・・
突然の書き込み失礼します。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…………‥‥‥
┃ ★新企画★ ”ろう・難聴の中学生・高校生リーダー養成合宿”のご案内
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…………‥‥‥
【目 的】
@読み書き(リテラシー)の力を高めよう!
Aろう者としてのアイデンティティを確立させよう!
Bろうの先輩や仲間と寝食を共にし、学びあい、ろう社会のリーダーを目指そう!
……………………………………………………………………………………………………
【日 時】 2003年8月5日(火曜日)〜8月7日(木曜日)2泊3日
……………………………………………………………………………………………………
【会 場】 独立行政法人国立オリンピック記念青少年総合センタ
……………………………………………………………………………………………………
【参加条件】 ろう・難聴の中学生・高校生
……………………………………………………………………………………………………
【定 員】 20名 ※お申し込みが定員に達し次第締め切らせていただきます。
……………………………………………………………………………………………………
【参加費】 15,000円
(2泊5食・施設使用料・講座参加費・交流会費・保険料を含む)
……………………………………………………………………………………………………
【主催団体】 NPOバイリンガルろう教育センター 龍の子学園
……………………………………………………………………………………………………
【スケジュール】※変更する場合もあります。
★第1日目★8月5日(火曜日)
午前:オリエンテーション
午後:米内山明宏氏の特別講座(交渉中)・ワークショップ
★第2日目★8月6日(水曜日)
午前:高島良宏氏のスポーツ実技・ワークショップ・討論
午後:木村晴美氏の特別講座・ワークショップ
★第3日目★8月7日(木曜日)
午前:ろう有名人の特別講座ワークショップ・討論
午後:研修・解散
……………………………………………………………………………………………………
【申込について】
@参加申込書にご記入のうえFAXにてお申込み下さい。
A申込期限は2003年7月27日(日曜日)です。
B参加費の振込は下記宛に2003年7月28日(月曜日) までに
お振込み下さい。
C参加費の振込確認後、7月末に別途「参加詳細案内」をFAXで
お送りいたします
……………………………………………………………………………………………………
【参加申込書のダウンロード】
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/dragon99/moushikomi.doc
……………………………………………………………………………………………………
【注意事項】
@ご入金をもってお申し込みの確定とさせていただきます。
Aお申し込みが定員に達し次第締め切らせていただきます。(定員20名)
B一度振込いただいた参加費は返金致しかねます。ご了承下さい。
Cご都合で宿泊されない場合の合宿費の返金、その他の費用との相殺は
致しません。
D事故の際には応急の処置は致しますが一際の責任は負いません。
但し、国内旅行保険に加入します。
……………………………………………………………………………………………………
【参加費振込先】
《郵便口座》 00160−3−553542 タツノコガクエン
……………………………………………………………………………………………………
【申込先・お問い合わせ】
NPOバイリンガルろう教育センター 龍の子学園
中学生・高校生夏休み合宿実行委員会
FAX:03−5982−9910
E-mail:kou-ono@bd5.so-net.ne.jp (中学・高等部担当)
……………………………………………………………………………………………………
学校の先生が、対応手話で教えることの不備な点、よく分かりました。
今、学校では聴者の先生が、聴覚障害児達に手話を「教えて」います。
言葉って教えるものではない、という考え方からすると、不自然なのかな〜。どうなんだろう。
手話を使うことを怒られない分、あるあるさんの通われているところよりも
柔軟かなあという気持ちもあるのですが。
そうですね、息子の手話エピソード。ぽつぽつ出てきました。
白地に黒ぶちの犬を見て「パンダ」と手話った時は、笑わせていただきました。(笑)
いやしんぼのカメはスーパーの試食を食べられないと、ぎゃーーっと
反っくり返って泣いていたのですが、ある日「パンもうな〜いやわ。残念な」と手話ると
「ない」の手話を気に入って「な〜い」と自分で何度も手話って納得していました。
今日は主人の実家でたくさん「花」の手話をして、おじいちゃん、おばあちゃんに
アピールしていました。可愛いですね、幼児手話。聞こえるお姉ちゃんもやってます。
私のハンドルネームの”メケ”は、実は聴覚障害児の息子のことではなく、上の娘(4歳)の
事です。(ちひねこさん、ひねくれたハンドルネームでごめんなさい。メケ君ではないんです)
息子も大事だけど、息子のことばかりにかまけて、お姉ちゃんの気持ちをおろそかにしたくない
という気持ちでこの名前にしました。
うちの娘も、あきさんのように優しいお姉さんに育ってくれるかしら。
やはりカメ(息子)の方に手を取られてしまいがちなので、娘のためだけに時間を取って
やりたくて、自分から「習いたい」と言ってきたピアノ教室へ通わせています。
甘えたい盛りに我慢させることが多くて、お姉ちゃんには申し訳ないなあ、と思うことも
あります。
今のところ、弟の障害についてもすんなり受け止めていますが、そのうち
姉の立場として複雑な思いをしていくのかも知れませんね。
小学生のお姉ちゃんが、弟さんの補聴器のことをいちいちお友達に聞かれるので
嫌な思いをしている、という話を聞いたことがあります。
障害者の兄弟というのも、難しい立場ですね。
あきさんの気持ちが、妹さんに上手く伝わりますように・・・。
> 丁寧にお返事いただき、どうもありがとうございます。とても嬉しいです。
> やはり、手話を続けようと思ったら今の聾学校を私が出て行くしか仕方がないようですね。
> (何だか、先生にやられてばかりで、とても悔しいけど)
いえいえ、出ていくんじゃなくて
こちらが学校を選ぶんですよ。手話を重きに置く学校を選択しただけ。
一介の教師に「出て行け」なんて言われる筋合いはないと思います。
そう言われたら、これ幸いと転校すればよし。
> 今まで、遠いからと、たつのこ学園も行った事がなかったのですが、思い切って見学に行ってきます。都内の聾学校も手話を導入していると聞いた事があるので、都内の学校も見学に行きたいと思います。(ちょっと今、夏休み前で時期が悪いかもしれませんが)
> 見学が終わったら、またカキコします。また相談に乗ってください。
結果のレポートをお楽しみにしてます。
少々遠くても、関東に住む貴方は地域に住む者に比べれば、他に選択肢があるだけ
まだ恵まれてる方だと思いますよ。
結構前に、聾学校での授業は誰に合わせるのか、といったご質問があったと思います。
先生によっても違うと思いますが、基本的には一番ゆっくりしている子どもに合わせているのではないでしょうか。
聴力的なところでは誰に合わせるか。そのことに関しては大変申し訳ないのですが、私はあまり考えたことがありませんでした。音声と片言の対応手話と教材を使ってなるべくみんながわかるように、と思うくらいです。座席配置で配慮するというのは聞いたことがあります。聴力的に厳しい子がより読話がしやすいように、正面の座席に座るようにするとか。(でもこれも子どもからしたら常にプレッシャーがかかってしんどいかもしれないですね。)
ただ、先生によってかなり違うんだと思います。教育実習生という立場で学校に入ったときでさえ、えらそうにも「あ、この先生はずれ」ってなことを思ったことがあるくらいですから。学校は選べても先生は選べませんよね。先生間の力量の格差というのはとても大きな問題かな、と思います。自分もその問題の渦中にいることを常に頭に入れておきます。
私も聞こえる娘をもつろう者です。
> あるとき、うたたねしたら誰かが肩を叩くので
> 何かなと目覚めたらお父さんと一緒に寝ていたはずのゆたかが
> お茶、ちょうだいと手話りました。手話で二語文を喋った瞬間でした。
わ〜、いいですね〜。
私も娘がいつか手話で話しかけるのを楽しみにしながら、
手話で話しかけています。
きょうこさんもゆたかくんが生まれてからすぐに手話で
話しかけたのかな?
聞こえる子どもをもつ聞こえない親ってたくさんいるのに、
そういう親のための掲示板、ないんですね。
私はホームページ作成の知識がないんで。誰か作ってくれない
かなあ?
この掲示板とはちょっとかけ離れた内容ですみません。
丁寧にお返事いただき、どうもありがとうございます。とても嬉しいです。
やはり、手話を続けようと思ったら今の聾学校を私が出て行くしか仕方がないようですね。
(何だか、先生にやられてばかりで、とても悔しいけど)
普通幼稚園も、お友達と話が出来ないと可哀想ですね。
引越しも、なかなか難しいのですが覚悟を決めるしかなさそうですね。(孟母三遷ですか。)
今まで、遠いからと、たつのこ学園も行った事がなかったのですが、思い切って見学に行ってきます。都内の聾学校も手話を導入していると聞いた事があるので、都内の学校も見学に行きたいと思います。(ちょっと今、夏休み前で時期が悪いかもしれませんが)
見学が終わったら、またカキコします。また相談に乗ってください。
図々しくて、すみません。どうも、ありがとうございました。
そしてまた、よろしくお願いいたします。
一昨日、図書館でオリバー・サックス著『手話の世界へ』を読んで、
今まで手話や口話、インテ、ろうに対して考えたことを大幅に覆したように間違った認識を持っていたということをこの掲示板を読むにしても思い知らされました。恥ずかしく思います。今まで掲示板に書き込んだことはお許し下さい。他団体の日本手話を強く主張する理由もなんとなく分かりました。
手話は単に、口話の補い、または身ぶりではないですね。通じることの素晴らしさや言語はあるということは分かっていたけれど、深い意味で手話はろう者だけのものではない、つまり障害に結びつくことではないということは知りませんでした。こんなって手話は素晴らしいんだなあと今でも深い感銘を受けています。今、手話学習中の身ですが、その本に書かれていた手話の概念に基づいて、手話はどういうものなのかやっていきながらもっと勉強しきたいと思っています。
口話中心で暮らしていますが、そのへんなこだわりはいらないと思います。もちろん聴力活用も入れて長所だけは活かします。
[9159] いのししの娘さんへのちひねこさんの書込みは分かります。私も最近、日本語を意識すると訳わからなくなったりしています。読むよりは書くほうが難しく、無意識に書いても時々ミスがついてしまうし、逆に意識して書くと、よく使う文しか書かないし、助詞などの関係を考えると分からなくなったりします。それと、自分の文章をなんとか空気のように、自由の幅が利けないかな〜と思ったりします。
自分の頭の中では日本語だったり、目で見たことや絵的イメージでいろいろ思考しています。大人になるにつれて、最近は日本語で考えることが多くなっていますね。バイリンガルの場合はどうなのでしょうか?
話はズレますが、私の場合は子供が出来たときに聞こえる子でも、手話の素晴らしさを教えて行きたいほうですね(考えたばかりですが)。偏見を持たないために。
『手話の世界へ』を読んで、あのベルさんが憎ったらしいと思いました。
子どもも親もお互いにたくさんおしゃべりしたいのに、
手話はダメ!というのはおかしいですね。
> 聴覚障害児を受け入れてくれるような普通幼稚園を
>探した方が良いのでしょうか?
私も幼児のとき、一年間だけ普通幼稚園に通ったことが
あるのですが、お話が通じなくてつまらなかったです。
見よう見まねで遊ぶだけで・・・。
やっぱり、小さいときは同じ聞こえない子ども同士で
たくさんおしゃべりしながら遊ぶのがいいですね。
もし私が聞こえない子どもをもっていて、関東にいるんだったら、
龍の子学園の幼児教室に入れたいと思っています。
今年から毎日やっていて、手話でのびのびとコミュニケーション
したり遊んだりしています。
子ども同士の遊びを大切にしているので、親は送り迎えだけ、
母子別離が条件になっています。
手話を使っていること以外は一般幼稚園と変わりないので、
いいなあと思っています。
乳児教室もあるので、一度見学に行ってみてはいかがでしょうか?
このHPのフリースクールのところに、龍の子学園のHPが
あります。
どんなに遠くても、手話を教えてる学校の近くにアパートを借りて、
そこに入れますね。
あるあるさんもお仕事をされてるのですか?
私も、そもそも、母子同伴というのは反対なんです。
まずは母親の犠牲にする割合が大きすぎる(仕事を失うなど)
他にお子さんがいれば、兄弟間の仲もうまくいきにくくもなりやすくなります。
私も3歳女児を持つ聴覚障害者ママですが、もしも腹の子が聾者だったら・・・
別に聾者として生まれることには、抵抗感はないけど、一番の問題は
教育でしたね。もしそうなら、なんどしてでも手話を第一に教えてる
ろう学校の近くに仕事を探し出し、引っ越そうとマジで考えていたこともあり、
そういう意味で応援したくて書き込み致しました。
PS,先生へのご機嫌取りのために、手話を止める必要なんてないですよ。
それこそ、ナンセンス。
ろう学校の同級生としゃべるときはちょっと日本語でものを考えてから、手話る。
澱みなくなめらかに出てこない。ろうあ者からは難聴者か健聴者と思われてしまう始末。
手話サークルに通う健聴者の方がよっぽど手話がうまい。
手話を日常的に使わない環境に身を置いているとは言え、
健聴者と1対1でしゃべる方が楽。
感覚的にも健聴者に近い。
手話環境で育ちたかった!
横レスごめんなさい。
<そもそも、どの言語にも言えると思いますが、非ネイティブの人がその言語としての特性を有しているかどうか判断できるっていうことあり得ないんですよね。英語のネイティブでない人が、その人が話しているのはネイティブの英語だと判断できる力があるかどうか....。
だから、非ネイティブの人が「本物かどうか」ということを観察しようとしているところに、マイノリティに対するごう慢さ、抑圧というものを感じるというのもまた事実です。
このくだり、肝に銘じておきます。「この人はろう者かな??違うかな??」と想像することはあるので、ぐさっと来ました。対応手話のような話し方に見えるろう者としばらくはなしていて、「あぁ、やっぱりろう者だなぁ」と感覚的に思うことがあるのですが、それってまずい??「あぁ、私とは違うなぁ」という風に思います。
逆に、「ろう者と同じように手話が出来る」という難聴者にあって話をしても、「あぁ、やっぱりろう者とは違う」と思ったりします。聴者の手話とはまた別の意味で違っているな、ということはありますが。
基本的に、ろう者集団のなかで幼いころから育っていればその人は手話の言語として必要なものを獲得していると私は思っています。その必要なものを私は判断出来ないけれど。(というか、手話に必要な特性って、奥深くて掴みきれないんですよね)私には出来ない、どうやってやっているんだろう、ということには沢山出会います。
手話の特性に関する講演を聴く機会には恵まれていると思います。それを聴いていなかったら、私もレンさんのように思ってしまったかも知れない。ネィティブでないインテや難聴者の場合は、そういう手話の言語的特性の情報というか、知識があった方が、いいのかなって思いました。そうすることによって、自分の手話と、相手の手話がどう違うのか位は受けとめられるようになるのではないかと思います。
もちろんこういう情報や知識は、手話学習者も知っていた方がいいと思います。
不要な衝突が少しでも少なくなるのなら…
今は私、日本語も訳分からなくなってしまって。どんな条件があって、この接続詞や助詞などを選択しているのか、考えれば考えるほど訳が分からなくなってきてます。ハマってしまってます。
たとえば
「むこうへ行く」
「むこうに行く」
いったいどんな違いがあって、条件があってそれぞれの言い方を使い分けているのか、訳が分からなくなりました。同じように私は思ってしまうのですが、日本語ネィティブの聴者からすれば厳密な区別あるのかも知れないですね。
親と一緒に暮らしていたころ、「それ」「あれ」の区別が出来ていなくて、よく間違えていました。私的には「あれ」と思って使っていると「違う、この場合はそれという」と言い直されたりしたんですが、どうやって判断してるのか?うーん。今も間違ってるだろうなぁ。うーん、言語感覚って難しい。
あと情報もありがとうございました
言語っていう雑誌、なかなか小さいお店にはおいていないんですよね。
以前「児童心理」っていう内容の雑誌もどっかで見掛けてぱらぱらとめくってみたけど、いやーん、むじゅかしい〜
子供生むのが怖くなってしまう雑誌でした。読まなきゃいいのに、バカですねぇ。
大きいお店なら置いてあるかな??興味があるので探しに行ってみますね。
ごめんなさいね、また書き込みしちゃって。
私の思い違いがあったらと。
レンさんがいっているビデオの男の子は、シンポ修了間近になって上映された分ですか?
その男の子は「シンポに行けないから、言いたいことをビデオでみんなに伝えて」と両親に頼んだと司会が言っていたのですが、その男の子ですか?
だったら、その男の子はデフファミリーの子です。
底抜けに明るい子です。
でも、ビデオでは、最初のうちはコードスイッチングを起こしていて、
日本語対応的になっていましたが、NMSはばっちりありましたね。
最後の頃にはバリバリの手話になっていました。
補足ですが、その男の子の弟さんは聞こえる(コーダ)のですが、
弟さんも兄に負けないくらいにバリバリの手話です。
私も龍の子学園のスタッフに教えられるまでは、ろうの子だと思っていたんですよね。
私はどちらかと言えば、弟さんのファン。
バイリンガリズムを考える上で興味深いものがたくさんあります。
書店にて発売中のようです。
---
「言語」8月号(大修館書店) 定価920円(税込)
特集 バイリンガリズムとしての手話
日本手話によるろう教育を目指して
ろう者のバイリンガリズム(市田泰弘)
ろう学校における教育言語(ダーレン エワン・岡本真未・赤堀仁美)
ろう児の第二言語習得(武居 渡)
手話は聴者との間に対等な言語環境をもたらすか(金澤貴之)
コーダのバイリンガリズム(渋谷智子)
「手話で教育を受けさせて」(全国ろう児を持つ親の会)
手話通訳者とバイリンガリズム(木村晴美)
手話による国語教育法の実際(野呂 一)
外国手話とのバイリンガリズム(森 壮也)
手話にも方言がある(米内山明宏)
レンさんへ しつこいようでごめんね。
> 発言の内容は、歳相応の子供の言う事ではないのでは、と思いました。
その男の子、小学1年の子だと思うんですけど、年相応の子どもの言うことではないって?
どうしてかしら?
龍の子学園の5歳児が「ろう学校の先生は何を行っているのかわからないから、ここにくるとホッとするよ」と言ったりしているんですが、これも年相応の発言ではない?
その男の子の言ったことは、その5歳児のいっていることとそう変わらないことなんだと思うんですけど。
レンさんへ
> > 対応手話ではありませんよ。それ。
> > ネイティブの人たちならそう思っていると思います。
>
> そうですか?ネイティブの人の中にも同意見の人はいたようですよ。
> 私は日本手話には見えませんでした。
ネイティブの中にもそういう感想を持つ人がいただろうということは容易に想像できます。
でもですね、レンさんと、そのネイティブの方が思い浮かべるイメージというものにズレが出ているだろう、
ということも想像できます。
ま、それは、レンさんだけでなく、手話通訳者や手話学習者にも似たようなことありますけど。
「ろう者なのに対応手話を使っている」というケースが往々にしてあるけれども、
そのろう者の「対応手話」のように見えるものが、言語的には「日本手話」になっていることも
ネイティブの方と非ネイティブの方が同時に「対応手話のようだ」と思っていても、
その思い描いている実体が違うことにも留意しなければならないと思います。
そもそも、どの言語にも言えると思いますが、非ネイティブの人がその言語としての特性を有しているかどうか判断できるっていうことあり得ないんですよね。英語のネイティブでない人が、その人が話しているのはネイティブの英語だと判断できる力があるかどうか....。
だから、非ネイティブの人が「本物かどうか」ということを観察しようとしているところに、マイノリティに対するごう慢さ、抑圧というものを感じるというのもまた事実です。
それから、付け加えておきますが、その男の子のおしゃべりしている場面を何度か見たことがありますが、大人顔負けの手話でいろいろしゃべりまくります。
その男の子、龍の子学園にくる前までは、聴覚口話中心の教育方針を持つ難聴児通園施設にいて、そのストレスから自虐行為もしていたようです。頭を壁にぶつけたり。
言語を持たない状態でしたから、どのように自分を(言いたいことを)表現したらいいのかわからなかったのだと思います。龍の子学園に来てから、水を得た魚のように、手話を習得し、自分の言いたいことを体でなく言語で伝えるようになってから、自分を取り戻したのです。
そして、ろう学校に転校し、ろう学校の先生のあまりの手話能力のなさにろう学校の先生も(対応手話でなく)ろう者の手話で話してほしい、と言ったのです。そういう男の子です。だから、その発言も自分の意志で言ったことがわかります。
決して「やらせ」ではないんですよ。
「やらせ」ではないか、というのはレンさんだけでなくろう学校教員の一部の方にもいらっしゃるようです。まことに残念なことですが....。
<その考え素敵ですね。わたしはろう学校育ちにもかかわらず
セミリンカルになってしまいました。中途半端なんです。
そうですか??書記日本語ちゃんと書けているし、おそらく手話も私から見たらしっかりネィティブしているんじゃないかなーと思うのですが。
というのも、私の周りには結構「私対応手話なのよね、伝統的手話出来ない」というろうの方がおられます。口話で厳しく育ってきた人ほどそういいますが、よーく見てみるといのししの娘さんがいっている非手指動作がバンバン入っているし、聴者が考えている空間活用と、手話話者であるろう者が考えている空間活用もかなり違ってきています。指文字とか口の形がついているから対応手話なんだ、という風に思っているようです。だけど、なぜかろう者の対応手話といっている手話も読みとりやすいんですが…。
例えば空間活用
聴者は空間活用、っていうと体の向きをあちこち変えて、なんていう風に教わっているかも知れませんけど、ろう者の手話を見ると、体の向きあちこち変えてないです。
手話サークルで、音もセリフもないビデオを流して、そのビデオの様子を手話で表してください、という学習をしました。
もうそこからネィティブのろう者達と、そうでない人たちの差がはっきりと現れてしまいました。手話の使い方の違いがはっきりと分かってしまいました。(中にはかなりろう者に近い手話をする難聴者もいましたが、それでもです)
ろう者、身体必要以上に動いていませんでした。
聴者を含め、ネィティブでない人たちの場合はもう体の向きがぐるんぐるん変わったり、説明みたいな話し方になったり。非手指動作なかなか入れられなかったり。(全部を手型で表そうとする) 私もろう者より表情や身体が大げさに動きます。良くろう者に「今のオーバー!!」とかいわれるからなぁ。違和感あるってことでしょうね。
私の地元にも、きょうさんと同じろう学校出身の人がいます。(多分学校同じだと思います。付属ろうでしたよね?)歳も同じくらいかも知れないですね。その人も最初は「僕、手話ろう学校を出たての時は下手だった」といいました。口話で厳しくって有名な学校だったし、寮育ちじゃなくて、親元で暮らしていたから家に帰ると手話を使わなかったそうです。
でも、ろう協に入って、沢山のろう者にあったらあっという間に手話が洗練されていったみたいですよ。手話の下地があった、ということだと思います。やや日本語が介入することが今でもあるけれども、ネィティブでない私から見たら立派に手話を獲得してます。日本手話ってどういうものか、日本手話をどう教えたらいいか、という勉強をしてから、彼の中で何かが変わったようです。それまではきょうこさんと同じ「中途半端だ」という風に自信がもてていなかったみたいなんですよね。
自分ではセミリンガルと思っていても、他人から見たらそうではないかも知れません。
手話サークルに通い始めた、ということですが多分そこにろう協会もワンセットになっていると思います。神奈川県とかだとサークルがありすぎてろう者が分散してそれぞれのサークルに顔を出しているらしい、と聞きましたけど、一つの地域に1つか2つのサークルしかない場合は、大抵はろう協会とパイプがありますよね。
ろう者達と話して、言語的にストレスを感じないのならば、ネィティブではないかと私は思っています。言語を使いこなすのに必要なものがちゃんと身に付いているということだと思います。
> [9136]
> >端的に言って、どのように見られているのですか?
>
> 言わぬが花,知らぬが仏,です。
あれま。そこのところはご自分から話を振ったくせに〜(^^;
まぁ、いいかげんな「風評」は多少聞いてますけど。
> 対応手話ではありませんよ。それ。
> ネイティブの人たちならそう思っていると思います。
そうですか?ネイティブの人の中にも同意見の人はいたようですよ。
私は日本手話には見えませんでした。
> それから、言わされたんだろうと疑うところに、ある悲しさを感じます。
疑ってかかったわけではなく、何の先入観もなしにごく自然にそう思っただけですよ。
発言の内容は、歳相応の子供の言う事ではないのでは、と思いました。
発言の主旨や、集会の目的への賛否とは別にです。
> 不躾な質問に丁寧に答えてもらって有り難うございます。
> 手話が母語になると言ってもらって、とてもほっとしました。一番怖いのはセミリンガルだと
> 思いますので、最低モノリンガル、欲張ってバイリンガルになってくれればと思います。
その考え素敵ですね。わたしはろう学校育ちにもかかわらず
セミリンカルになってしまいました。中途半端なんです。
健聴者の中てたった一人立ち働いているので
自分が聞こえない人間であることすら忘れてしまいそうで
(確かに日常的に自分が聞こえないという事を思い知らされることが多々あるけれど)
そのままじゃ悔しいのと聴覚障害者のアイデンティティーを取り戻すため、
地域の手話サークルに子どもたちと通いはじめました。
自分は聞こえない、では何をどうしたいのか何をしていきたいのか
そう考える事すら最近は忘れてしまっていました。